☆天王寺・布施夜回りの会 近況概略報告
#内容は特定困難にするためにわざと改変してあります。
2015年10月、大阪府内より首都圏方面に薬物取引者の手により”ていよく連れて行かれていた”精神障害のある元野宿者Aさんが、急に首都圏湾岸地帯の”中間吟味施設”より首都圏周縁部の人里離れた場にあるサナトリウム的な施設に”移住”し、連絡が途絶える。同施設は当人の個人情報保護を盾に”連絡するための手段も金銭の持ち合わせもない”と推測出来る当人の必要最小限の外部交通を事実上遮断。大阪時代に最終的に当人をケアしていたグループホーム世話人との交通すら何故か遮断する状況に。当然ながら、日を改めるなどして当該施設指定の”連絡取り次ぎ可能時間”に何度も交通を試みたが、施設側の判断でAさんの状況すら聞けず。前出のグループホーム世話人が連絡しても同様。大阪時代の急な連行によって”未払い”となり携帯電話を持てず金銭の持ち合わせも無かったと思われるAさんからの公衆電話からの連絡はもちろん、施設からの連絡もなし。
2015年10月末より、大阪市内の元野宿者Bさんの居宅保護で住んでいる古いマンションでの”悪臭”について相談が寄せられる。当会有志が訪問し、”何らかの死んだ動物(もちろん人間を含む)の腐臭”であることを感覚的に確認。Bさんの居室の隣家から発生した”悪臭”であることを確認し、Bさんからも最近当該隣室からの生活音が無いことも確認の上、Bさん本人の通報によって消防レスキューが梯子を使ってベランダ窓より突入後、同隣室に腐乱死体1体を確認。突入時に立ち合った警察がレスキュー隊員の内側からの解錠により内部に入り、その際に大量のハエと大量の蛆虫がより強烈で濃厚な悪臭とともに噴出。Bさんとともにその場に殺虫剤を片手にしてその瞬間に備えていた当会有志も立ち合い、殺虫作業。消防撤収後の警察による検死のための遺体搬出に立ち合った後にも一切現れない”管理”会社にBさんが再度電話。九州地方にあるという”管理”会社は電話をとらず全く返信も寄越さず。Bさんや騒ぎで出てきたマンション住人達とともにウジやハエ、悪臭などとの格闘開始へ。”管理”会社の対応に激怒した他の住人らが、Bさんとともに再三”事後の処理をどうするのか? 悪臭がより酷くなっているから何とかしろ”と連絡するも”後刻確認の上、担当が対応します”との対応ばかりで連絡も寄越さない状況に共同して保健所などに指導を入れさせることも並行して行うよう提案。3週間後にゴミ処理業者を渋々寄越した”管理”会社は、1週間にわたって徹底的に何もしなかったばかりか、警察や役所からの指導で”事件”があったことや状況を知るというフザケぶりで、悪臭やウジとの住人の格闘にも一切耳をかさなかった。住人によれば一切管理せず掃除すらしない”管理”会社は九州に本社があり、最近まで大阪の連絡先すら示さなかったといい、家賃だけかすめ取る能しかないだろうオーナーとやらも九州地方の田舎町在住のアリサマなのだという。おまけに寄越されたゴミ処理業者は、そんな”特殊事情”のゴミ処理を行うと聞かされていなかったらしく、万全の装備で立ち合った当会有志と”その場を占める悪臭やウジ”にも勧告されて装備を急いで買いに行き作業に当たるという目に遭わされたにもかかわらず、何とか懸命に対処。その場に挨拶もなく背広でノコノコ現れた”管理”会社の現地担当者を見つけた住人有志が猛抗議。その間にも立ち合いの当会有志が自前で用意した殺虫剤や塩素消毒液をゴミ業者担当者たちによってウジとともに次々引きずり出され固まった血が残るなどした”排出ゴミ”群に吹きつけたりして一応の駆除・消毒。そして、”管理”会社が想定にもしていなかった排出後の悪臭処置や”事件性は無いものの死因すら明らかにされない腐乱死体が存在したその場の消毒”をどうするのか(何らかの感染病であるのかそうでないのかすら個人情報を盾に何処も明かにしなかった)、マンション住人や近隣住民には不衛生極まりない状況や悪臭、日々格闘せざるをえないウジに対しての処置をどうするのかを”管理”会社担当に質したが何の具体的な提示もなかったため、当会有志がゴミ業者撤収後にも自前で用意した塩素数本を使用して共用部への消毒吹き付け作業を行って一応のささやかな消毒を行った。(”管理”会社は共用部清掃を行う業者すら寄越さず放置。その後も今日に至るまでも”管理”会社側からの共用部清掃”業”者は一切来た形跡が無いため、報告により訪問して見かねた当会有志と住人有志が一応の清掃をやるほどの状況。にもかかわらず”管理”会社は自ら資産価値を下げている事を棚に上げて、住人が悪評を吹聴し回って営業妨害しているなどと)それによって、共用部に垂れ業者によって一応拭かれた後も”腐乱死体由来の液体”の名残りによる湿りからの悪臭が漂っていたものや、死体由来の乾燥した皮膚組織の残骸や乾燥海苔状になった血まみれの髪の毛のへばり付いたものなども一応消毒されたが、ハエ・ウジだけはその後も当該居室から現れ、当該居室からの悪臭もそのままであった。金だけかすめ取りあてにならない”管理”会社は、その後の”特殊清掃”の分野になる当該居室の清掃・消毒を住人有志の再三の苦情・抗議でようやく12月第2週に特殊清掃会社に依頼して行ったが、住人から”不始末への一切の詫びもせず”惜しみなく漏れなく家賃及び共益費をかすめ取ったばかりか、一連の騒ぎや悪臭、ウジ・ハエに悩まされていたマンション直近の民家群住民にすら詫びの一つも入れなかった。疲れ切った住人らは抱えた仕事の繁忙期ということもあり、呆れ果てて”訴える”と息巻いていた人ですら完全にトーンダウンした。
特殊清掃業者が”中国人”留学生かと思われる若年労働者とともに清掃に来た日は当会有志が立ち合った。孤独死者でもあった心療内科に通院していたという”居宅保護者”で腐乱死者の遺品である”排出ゴミ”が、少しの遺品を取りにきた女性遺族の持ち帰った分を除いて排出処分された日、当該居室入り口で見た居室内よりは幾分か乾き手前のユニットバスから流れ出していたであろう、床に広がってあった大量の湿った固形の血溜まりは更に黒くなり固形になっていたが、やはりハエが幾分か飛び出し、ウジは未だ何処からともなく這い出し、床には無数の羽化後のサナギの殻が残されていた。中国人労働者と若い業者は、ほぼ半日かけて延べ板の樹脂のように床に貼り付いていた分厚い血溜まりを含め、更に凄惨な光景だっただろうユニットバス内に付着したり溜まっていた更に大量な血溜まりなどをスクレパーなどで除去し、デッキブラシでこすり取った後、塩素消毒と防虫処理などリホーム関連にならない作業までは総てやって通常量以上のバルサンを炊き、一箱の”死臭ビーズ”を居間側に置いて仕上げる頃には、見違えるような状況だった。とはいえ、放置されていた期間の長さもあり、床材から底面コンクリートに染み込んだものは改装しても容易には難しいと先に”中国人”労働者に作業を終えさせて労って帰らせた業者は当会有志に教えてくれていた。その日現れなかった”管理”会社のフザケ具合とは別に実に爽やかな2人であったので、当会有志はささやかながら労いの気持ちとして缶飲料を選んで飲んでもらった。業者の話では3カ月間程度、”死臭ビーズ”が強力な消臭力を発揮するという。この業者は”管理”会社のような不始末をせず、臭いが漏れないよう一応の出入り口と排気口への目貼を仕上げにやって帰ってくれた。そしてその前に、”必要なら排気口側に多く付着していた強力なカビに届くかは別として排気口から塩素吹き付けしておきますか?”と気を利かせてくれ、そうさせた後に排気口を目貼した。廊下などを最後に当会有志が清掃後に塩素消毒した頃にはもう、夕方であった。保護担当役人にも、”管理”会社にも見付けられず、約1ヵ月半程度(遺体発見日の1ヵ月半程度前に死者の知人でもあった同じマンションの住人が最後に死者を目撃した日から考えて少なくとも)、誰からも看取られず”脱腸”だったという当人は恐らくユニットバス入り口もしくはユニットバス内で大量の下血か吐血を伴って失血死をしたのではないかと思われるような状況だった。それほど大量の血溜まりがユニットバス側から床にあふれて来ていた。ゴミ業者によって排出された居室内の寝具類には血痕はなかったからだ。隣に住んだBさんの通報により、ようやく腐乱後に死体袋で居室外に出され、警察関係者の他は当会有志によってのみ見送られて白い警察車両に載せられて検死に向かったその光景は、何度見ても物悲しいものであった。 その後も、フザケた”管理”会社とは別に住人らから”掃除しに来れる時に来てください”と指名を受けている当会有志が単なる気まぐれでBさんに会うついでに清掃しているが、”管理”会社の寄越しているという清掃業者が来た形跡は一向に見られない状況である。
年末に、元某公園テント村住民だった元野宿者のCさんからの懐かしい声で留守番電話にメッセージが残されていた。当日は週払い仕事の日で、その時間も仕事中だった当方は、後刻返信してと思ったが、夜遅くだったため、翌日の昼前に連絡を入れた。以前から吃音のある方だったが、それが幾分か酷くなっていることに気付いた時に本人から発された言葉でその原因を知った。脳梗塞である。今週に退院して居宅保護先も別のところに引っ越したという報告だった。元々住んでいたマンションは最初に居宅保護になってからCさんがずっと住んできた場であったが、半身不随でエレベーターを使用する事を余儀なくされた時点でマンション住人から”エレベーターを使うな”などという意味不明が口にされる嫌がらせなどがあり、ケースワーカーとの相談の結果、同区内のマンション1階に引っ越すことになったという。大晦日にCさんの引越先を訪ね、約2年ぶりに会ったが、やはり少し不自由だという半身ながら玄関口まで歩いてきて出迎えてくれたさまは、変わらなかった。2年前に会った時は、Cさんが散歩中で、健脚ぶりは何の不安も感じさせないように見えていたが、その頃から”減らしてる”と言っていた喫煙について、”元気でやってもらうためには是非それを継続して可能なら禁煙してください”と談笑して分かれていたのが、思い出された。自転車も達者で、小さな折りたたみ自転車でも当方が26インチのマウンテンバイクで移動するのに何の苦もなく付いてくるほどの健脚であった。そのCさんは脳梗塞でマンション共用部で倒れ、通報されて緊急入院することになったという。発見が早く、救急通報と到着も早かったため、軽くて済みましたと話した。それでもリハビリ当初は半身が思うようにならない苦痛の中、このまま動かないのは辛いと感じたという。それが、何とか杖もなく玄関まで歩いて出迎えてくれるまでになったのは本当に良かったと言うと恥ずかしそうに笑った。当方が知る多くの脳梗塞経験者はもっと重症だからそう思ったし、彼女・彼らは例外なく車椅子生活になっていたからだ。
ともかく、Cさんは最初に当方が”介護保険は?”と確認した時に即答で”やってます。要介護2です”と応えたこともあり、前述のような放置される孤独死だけは無いよう自分でも考えたということだったので安心した。ヘルパーが週4回、買い物・洗濯・掃除などの生活介護で入ってくれているので助かっていると喜んでいた。某テント村再建時の数少ないメンバーの生き残りの一人。あれからもう、14年という時が経ち、あの闘いの日々を語れる個々人も少なくなったと心から感じる今日この頃。公園内の落ち枝や落ち葉を薪にするため、皆で集め、スーパーでもらったダンボールを敷物にした後はそれを薪に温まったあの1月からの日々を知る者は本当に少なくなった。奴らが強制した廃墟からその廃材をも利用して再建していった野宿者や貧窮者が集う場ともなったあのテント村が再建されて始めて野宿者や元野宿者、支援者が夜回りなどの活動を公然と再開した1月6日、気がつけば今日はその日。
20世紀末より、闘いの場を共にし、何度も当人の問題に向き合って処理し、何度かの行方不明後にも当方に再会してきた冒頭のある元野宿者との連絡が昨日ようやく取れた。当人が首都圏に連れて行かれた後も連絡を取り合っていた大阪での最後の居場所であったグループホームの世話人が知らせてくれた連絡先を頼りに昨秋から何度も連絡を入れていたけれども全く反応も無かったその施設に、当人への年始挨拶をすべく飽きもせずに連絡した結果である。
越年越冬期の取り組みは、例年に無く行えなかったが、当会有志は可能な時に可能な時間で天王寺公園などの夜回りを行ってきた。今回も12月31日深夜に浮かれた忘念悔とやらの群れとは別に越年夜回りを天王寺公園などで参加者の持ち寄りの簡易カイロ=使い捨てカイロを持参で行った。例のごとく、同日は釜ヶ崎反失連ら支配機構一派の”人民デモ”が大阪市内各所を”襲う”ことが予測されたため、時間をずらし、こちらはしずかに安否確認を行った上で必要な方に簡易カイロを手渡した。(人パト連中のドカドカ押し寄せ配布したカイロが大量に置かれている時があるため)”人パト”を避けてその日に”バコシ=引越し”したり、映画館で過ごしたり、はなっから三角公園に足を運ぶ個々人もあるが、それら越年対策や大手の越年の取り組みとは無縁の個々人との路傍での出会いをこそ大事にし、それが闘争時の力になったことを知っているからだ。
ともかく馴染みの顔にも何人か10月以降はじめて会えて少々安心した。当日は、河内西部の旧布施市内にも行く予定であったが、体調が思わしくなく、断念せざるを得なかった。
ともかく、忘れられてしまったかもしれないが、野宿者は今も厳冬期の各所の路傍などでささやかな休息を取っている。そして、層と化した貧窮者はアベノミクスなるシャボン玉がどうあれ、減るどころかヘル=hellを漏れなく強いられている。かつて当方は”奴らに薪にされるのではなく、奴らを薪にこの厳冬を生き抜こう”などという意味の事をこの時期に文字列にしていたことがあった。それは色褪せるどころか今も必要な事に変わりはない。気力は随分殺がれたけれども。
won’t pay for state! can’t pay for state!! pay for OUR CRISIS RIGHT NOW!!!
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